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#09 神戸から大阪へ築く全国展開の礎

ささやかなベビーショップとして神戸で誕生したファミリアが全国へ発展していく過程で、多くの恩人がいました。 そのひとりが阪急グループの総帥であった清水雅氏です。この出会いをきっかけに阪急百貨店への出店が実現し全国への礎となりました。

阪急百貨店へ出店

清水社長を囲む創業者

阪急百貨店の社長に就いていた清水氏は、時折夫人とともに神戸の街を散策していました。 そんなある日ふと眼にとまったのがファミリアのお店です。 「なかなかいい商品のある店だ。伸びるだろう」そう感じた清水社長は阪急の当時の課長、鳥居正一郎氏(のちの阪急百貨店社長)にファミリアの商品の仕入れを検討するように指示しました。 坂野通夫はその当時レナウンの社員として阪急百貨店を担当しており、清水社長より指示を受けた鳥居氏は通夫の大学の先輩でした。 そんな関係から「神戸のファミリアという店を知っているか」「私の家内たちがやっている店ですよ」という話になり、ふたりはびっくり。 通夫は惇子らに阪急百貨店より出店の依頼があったことを伝えました。
創立して1年も経たない店に百貨店側から取引を申し入れられるのは異例の事でした。 出店するにあたっての条件を聞くと「おたくの商品には特別に、阪急特選のマークをあげますからネームを付け替えて至急納品してください。価格もできるだけ好条件で買取ましょう」と破格の申し出でありがたい内容でしたが、その場にいた坂野惇子と田村光子の反応は意外なものでした。「私たちは自分たちの手でつくっている商品に、ファミリア以外のネームをつけることはできません」というのです。 あまりにも商品知識を持っていない彼女たちのその言葉に、阪急の担当者はあきれ返りました。
「小売店の名前がついたものをそのまま百貨店で販売することはとてもできません。また、そんな前例もありませんよ。」といわれたものの、惇子は承服しかねました。「ファミリアは小売もしていますが、れっきとした商品をつくっているメーカーです。ファミリアの名前で売らせて頂けないのなら遠慮させていただきます。神戸の店で売る分だけでも忙しく商品づくりに追われていますので、ファミリア・マークのない商品をわざわざつくる気持ちはありません」と光子も続きます。「阪急さんでは、大倉陶園の食器をそのままの名前で売っておられるでしょう? 大倉陶園のマークを消して阪急陶園という名称で販売されるのなら話は別ですが...」海外まで知られている大倉陶園と創立間もないベビーショップを同等に比較する光子の言葉に、阪急の担当者はこんな相手初めてだ、というふうな表情をし同席している通夫も困り果てました。しかし、清水社長の指示であったのでさじを投げるわけにはいかないので『阪急ファミリア・グループ』という名称を設けることを提案され、ようやく惇子は納得しました。

清水社長の温情ある言葉

阪急百貨店の売場

ファミリアの商品は何ひとつ宣伝を行いませんでしたが、オープン初日から好評を得ました。 そして1週間も経たないうちに陳列ケースのなかがさびしくなってきたのです。これを見た阪急百貨店の売場主任は「商品の補充を早くしてください。こんなガラガラのケースのままではみっともないですから」と言いました。実は百貨店側から出されていた1ヶ月分約20万円の販売予想額に基づき生産計画を立てており、それが予想外に早く売れすぎたために商品づくりが間に合わない。彼女たちにしてみれば、ファミリアが品不足と責められるのは心外でした。「それならケースは1台お返ししましょう」 百貨店に出入りする問屋はいつもケースの確保を競いあっているのに、ケースを返そうというのです。そんな彼女たちの言動がはからずとも清水社長の耳にも届いたらしく、翌日惇子に社長室から呼び出しがありました。
清水社長は彼女を招じて「私はどんな人がファミリアをしておられるのか知らなかったのですが、聞けばあなたのお兄さん(佐々木隆一、当時佐々木不動産株式会社社長)や山下三郎君(当時山下新日本汽船株式会社社長、田村江つ子の姉の夫)とは、私もよく知っている仲なので驚いているんですよ」と話をやわらげた後、「女性ばかりで仕事を始められたのは立派ですね。アメリカの婦人子供服業界や百貨店では女性が大活躍してるんですよ。婦人の物や子供の物をつくったり売ったりするのは、男性より婦人の方が適しているのは当然でしょう。日本も早くそうならなければいけないと考えていたので、あなたがた女性の進出は本当に嬉しいのですよ。きっと成功すると思います。この際、ケースを減らしたいなどと言わず、むしろ2台から5台くらいに増やすことを考えてもらえませんか。あなたがたのグループは、いまに阪急百貨店の名物になりますよ」清水社長の温情ある言葉は、惇子の胸に重みを持って響きました。この話を聞いた光子らも一様に感動し、それなら清水社長のご期待に応えて商品づくりを頑張りましょう、ということになり2ヶ月後にはケースを3台にふやせるまでに努力しました。

数寄屋橋出店

通夫が代表取締役社長に就任した矢先、阪急百貨店が東京大井店のほかに、数寄屋橋へ進出することになりその件についてファミリアに内々の話がありました。 数寄屋橋のそのビルは米軍に接収されていたのが解除になり、元の持ち主である東芝が事務所として使用するよりも、銀座の繁栄に貢献したいという意向から、阪急百貨店の当時の村上副社長から、「百貨店として使えるフロアが1階と地下の一部しかないので、百貨店というよりも専門店ふうに何かの品種に特化する必要がある。ついては、東京のどこにもないファミリアのベビー・子ども用品をひとつの目玉に打ち出してみようと考えているのだが、検討してもらえないか。」
ファミリアの決意次第で、1階フロアの大半を任せてもよいという話までありましたが、それでは荷が重過ぎるため東側の一角だけを責任を持って引き受けることにしました。数寄屋橋店の名でオープンすることが決まったものの準備期間は1週間しかなく、徹夜作業を繰り返し1956年5月29日にオープンしました。

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